エジプトで発掘された世界最古のチーズ
紀元前1290-1213年に在位していたラムセスⅡ世に仕えていたプタヒメスという高官の墓がエジプト南部にて発見されました。1885年のことです。その後砂嵐によって墓は埋め尽くされてしまいましたが、2010年に再発掘されました。2013年から2014年にかけての発掘で多くの瓶が発見され、その中の一つにはキャンバス布で覆われた白い固形物が入っていました。これを最新科学技術(最近、考古学分野でも大きな成果をもたらしているプロテオミクスという方法)で分析した結果、どうやらチーズであり、3200年前のものと推定されました。この分析結果は論文として発表されています(Greco et al, Anal. Chem. 90: 9673-9676, 2018)。
プロテオミクスとはアバウトには、この白い凝固物を特定のたんぱく質分解酵素でアミノ酸数個からなるペプチド群に分解します。得られた無数のペプチドをLC/MS/MS(液体クロマトグラフィー・タンデム質量分析法)という高価な機器を使って全てのペプチドのアミノ酸配列を決めます。それらのアミノ酸配列をアミノ酸配列がすでに分かっているたんぱく質のデータベースと比較します。既存のアミノ酸配列と一致するとそのたんぱく質由来のペプチドである可能性が高くなります(図1参照)。指紋照合で犯人を割り出すのと同じ考え方です。
その結果、由来を明らかにできたペプチドを表1に示しています。例えば、ペプチド1はヒツジおよびヤギに共通のαs1-カゼインに由来するものと判定されました。同様に、ヒツジ、ヤギ、ウシ、水牛に共通するαs1-カゼインに由来すると判定されたものがペプチド2です。ヒツジおよびヤギに共通するβ-カゼインに由来するペプチド、ヒツジ、ヤギ、ウシ、および水牛に共通するκ-カゼイン由来のペプチドも1個同定されています。さらに、ホエイたんぱく質であるウシのリゾチームに由来するペプチドが1個、ウシの血清アルブミンに由来するものが1種類同定されました。そして、驚くことに、人畜共通の食中毒菌であるブルセラ菌(Brucella melitensis)のたんぱく質に由来するペプチドが1種類同定されました(表1)。
しかし、古代のチーズでしばしば使われているケフィア菌(Lactobacillus kefiranofaciens)や他の乳酸菌の痕跡は認められませんでした。この結果から論文の筆者らは、白い凝固物は3200年前にヒツジ、ヤギおよびウシの混乳から作られたチーズであると結論しています。
しかし、いくつかの疑問が残ります。第一に、乳酸菌は環境中にごろごろいるし、多くのチーズ作りには欠かせないのに何故痕跡がないのでしょうか。尤も、乳酸菌由来のペプチドが同定されなかったからといっても乳酸菌が使われなかったとは断言できません。LC/MS/MSの装置で検出できるのは、ペプチドがこの機器で検出されやすい大きさであることが必要です。なので、検出されなかったとしても、乳酸菌に由来するたんぱく質がバラバラに分解され、LC/MS/MSでの検出に適したペプチドがなかったのかもしれません。第2にはホエイたんぱく質としてはごく微量しか含まれていないリゾチームが検出されているのに、何倍も大量に存在するβ-ラクトグロブリンが検出されていないのは何故でしょうか。ホエイを排除し、カードを天日で乾燥させたのでしょうが、それでもβ-ラクトグロブリンが微量に残るハズです。リゾチームは人乳や馬乳では比較的多いのですがウシではごくごく微量しか含まれていません。初乳には比較的多く含まれているので、この“チーズ”は初乳から作ったのかもしれません。第3は、2016年8月20日のコラム(桜蘭の美女)にて紹介した新疆ウイグル地区で発掘されたケフィア菌を利用したチーズは3800年前のものと報告されています。エジプトで発掘されたものは3200年前です。3200年前と3800年前は年代測定の誤差範囲なのかもしれません。が、エジプトで発掘された“チーズ”を最古とするのはいかがなものでしょうか。
この“チーズ”らしき凝固物はブルセラ菌で汚染されていました。恐らく、この“チーズ”を食べた多くの古代エジプト人は激しい腹痛や嘔吐に襲われ、亡くなった方もいらしたでしょう。このキャンバス布で覆われた凝固物は廃棄処分されたものかもしれません。それにもめげることなく、おいしくて最高の栄養食品であったチーズは広く伝播し、発展したのです。今、私たちが舌鼓を打っているチーズは多くの人々の苦しみや苦痛を乗り越えて発展したものだということを忘れてはなりません。