世界のチーズぶらり旅

アルプス高原で食べるラクレットの味

2015年3月1日掲載

ラクレットはテントの中で

スイスとイタリアの国境は東西に屏風のように立ちはだかるアルプス山脈によって隔てられている。そこには名峰マッターホルンやモンテローザをはじめ4.000m級の山々が連なり、その北側を流れるローヌ川は深い谷を穿ち古来より人々の往来を妨げてきた。そのローヌ川はアルプス山中の氷河から流れ出て、多くの谷川を集めながらレマン湖に注ぐ。この一帯はスイスのヴァレ(Valais)州で、最近日本でも人気のラクレットはこのヴァレ地方の郷土料理なのである。今回の旅はこのヴァレ地方の高山で作られるアルパージュといわれるラクレットを味わうという贅沢な計画である。春から秋にかけて家畜を1.000m以上の高地に追い上げ、高原に自生する香り高い高山植物やその花々を食べさせる。そしてそのミルクから作られるチーズをアルパージュといって特に珍重さている。

名物の干し牛肉

訪問の地を調べてみてちょっと驚き胸が高鳴った。レマン湖からローヌ川を遡るとやがて谷は直角に折れ曲がる。その角から南方の道を登っていけばその先は、イタリアに通ずるアルプスで最も有名なサン・ベルナール峠に行きつく。この峠は古来より様々な人が越えていった。8世紀にはカール大帝、19世紀には、あのナポレオンも越えた。画家ダビットが描いた愛馬にまたがる颯爽としたナポレオンの有名な絵は、この峠越えを描いた物だが、現実はそんなにかっこよくなかったらしい。実際は山道に強いロバにしがみついて越えていったという。そしてこの峠を更に有名にしたのがサン・ベルナール犬(セント・バーナード犬)だ。2.400m以上あるこの峠は難所で、冬場は遭難者が絶えなかった。そこに彼らを救うためこの大型犬が登場した。17世紀から救助犬として訓練され、20世紀までに2.500人以上もの遭難者を救ったというからすごい。

ラクレットを焼くかまど

そんな峠を望めたらと期待したが、峠への道をたどっていた車は途中で隣の谷を登り始めた。物事はそううまくはいかない。車はどんどん高度を上げ、やがて車道が切れるあたりの斜面に山小屋が見えた。石造りのチーズの熟成庫や家畜小屋もある。このあたりはハイカーやトレッカーが多いためかテントで作られた簡易食堂があるが、メインはラクレットのようである。氷河に削られた岩が堆積してできた台地の傾斜はやや緩やかで、そこには高山の草花が一面に咲いている。到着が遅かったのでチーズ作りは見学できなかったが、斜面に埋もれるように建っている熟成庫は見学できた。

湖畔のご馳走

待ちに待ったアルパージュのラクレットはチーズ小屋のわきの白いキャンバスのテントの中でサービスされた。まずは牛肉で作るビュントナーフライシュというスイスでは定番の前菜が出る。私はこれが好物だ。ラクレットは外に設置された薪(マキ)のかまどで焼く。写真の様に冷水を通して冷たくした鉄板の上に半切りにしたチーズをのせて焚火にかざす。付け合せは定番のじゃがいもとピクルスだけだが、アルプスの山々を眺めながらの本場のラクレットは、やはり格別の味わいである。高原の花の様な甘いミルクの香りがする。フランス人がよく言うフリュイテ(Fruité)な味わいである。

葡萄畑で突然のライブ

午後には山を降りローヌ川を下ってレマン湖に出る。湖の北斜面は美しいブドウ畑に覆われていて、そんな中の小さなワイナリーを訪れた。ラクレットを堪能した後スイスの端麗な白ワインを楽しもうというわけだ。葡萄畑の中に据えられたテーブルにはこの地方の肉製品の盛り合わせが並ぶ。ワインが進み心地よくなった頃、突然地元のおじさんとおばさんで構成されたバンドが現れて歓迎の演奏を始めた。思わぬサプライズに同行者たちは感激し拍手喝采。この旅にまた一つ幸せな思い出が追加されたのだった。