コルシカのチーズ探訪の旅を終え、今どき珍しいプロペラ機でニースに飛んだ。そこから車で北イタリアを目指す。アルプス山脈が地中海に落ち込むあたりを通り抜ける高速道路はトンネルが多く、美しいコート・ダジュールの景色は切れぎれにしか見えない。ジェノヴァ湾に差し掛かると、やっと海岸の美しい風景が見えてきたと思ったらすぐに目的地トリノを目指して北上する。中世には海洋国家として地中海の東部や黒海にまで交易権を確立し強国として栄え、華麗なる都市といわれたジェノヴァの町を一目見たかったが遠回りなので、やむなく手前から内陸に進路をとったのである。海岸から30kmほど入るとアルプス山脈を隔ててフランスと国境を接するピエモンテ州に入る。
ピエモンテ州はチーズ王国でもある。イタリアのDOP(EUの原産地名称保護)認証のチーズ42種類のうち、ゴルゴンゾーラ、グラナパダーノを筆頭に実に9種類ものチーズがピエモンテ州でつくられているのだ。
高速道路を北上するとやがて左側の車窓に氷河をまとったアルプス山脈の連なりが見えてくる。その中にひときわ秀麗なピラミッド型の山がある。日本ではあまり知られていないが、モンテ・ヴィーゾという西南部アルプスの高峰で3841mと富士山より高い。この山の氷河を溶かして流れ出た谷川が北イタリアに広大なパダーノ平野を開いたポー川の源流である。高速道路の右側一帯はイタリアの銘酒バローロ、バルバレスコなどの産地が広がり、白トリュフで有名なアルバ、スローフード発祥の地として知られるブラなどの町がある。そして、日本ではあまり知られていないがDOP指定のブラ、カステロマーニョ、ムラッツアーノ、ラスケーラ などの個性的なチーズもこのあたりの特産品なのである。
地中海から内陸に入り150km余の快適なドライヴの後に州都のトリノに入った。トリノは古い歴史の町である。かつてはフランスのサヴォワ家に支配され、公国の首都だったため、イタリアらしくないシックな町といわれる。車好きの人ならフィアットがこの町で生み出されたことは先刻ご承知の事と思うが、巨大企業名「FIAT」の最後の文字TはトリノのTからとられている。トリノは近代産業と歴史的な文物が共存している町なのだが、そればかりでなく、チョコレートやミント・キャンディなどのお菓子で甘党にも知られている街だ。ピエモンテの料理といえば、最近日本でもよく見かけるバーニャカウダがある。バターとオリーヴ油を熱してアンチョヴィーで味付けして野菜を浸して食べる冬の料理である。また、ピエモンテ風フォンデューといえば牛乳で溶かしたフォンティーナ・チーズに白トリュフの薄切りを添える豪華版である。
地図を見るとホテルの近くには王宮群があり、その向こうに大きな市場がある。私は朝早く起きてまだ人影の少ない世界遺産の王宮群を通り抜けて市場に向かったが、王宮の中は迷路の様である。出発までにはホテルに帰らなくてはならないので由緒ありそうな建物を横目で見ながら先を急ぎやっと市場に着いた。まだ商品の搬入の車で混雑した中をぬって、まずはチーズの店の写真を撮るべく市場に入っていったが、チーズの店は思ったより多かった。ざっと見たところ日本で知られるDOPチーズはわずかで、名も知らないこの地方のチーズがたくさん並んでいた。
そのほか野菜の種類が多いのが目に付いたが、中でも長さ40cmはあろうかというアスパラガスに驚きながら、そそくさと撮影を済ませ、大急ぎでホテルへの道を急いだ。迷路のような王宮群の中を歩いている時悪魔がささやいた。もと来た道は遠いで!近道で時間を稼ごう。その声に従って地図を見ながら方向を定め近道とおぼしき路地に入った。が行けどもいけどもホテルの姿はない。ここでもう一度過ちを犯す。中年の女性に道を聞いてしまった。女性に道を尋ねるな!の言葉通り、彼女は明らかに違う方向を示した。迷ったら元に戻れ、の鉄則通り大急ぎで出発点に戻り、大汗かきながら3分前に何食わぬ顔でバスに乗り込んだのだった。