チーズを焼いてじゃがいもと一緒に食べるスイスの郷土料理、「ラクレット」を知っていますね。この料理が日本にお目見えしたのは、確か1992年に始まった1回目のチーズフェスタの時だったと記憶しています。チーズの普及に関わっていた筆者は、この年のチーズの祭典で初めてラックレットのサービスをしたのですが、半割りのチーズをヒーターにかざし溶けたところを、ダーっと削ってじゃがいもにかけて食べるという、その豪快さに皆驚いて長い行列ができたのを覚えています。今では国産のラクレット・チーズも結構たくさん作られるようになり、ラクレットを出す店もちらほら見られますが、先日テレビで、小樽の小さなおでん屋さんが、ラクレットを出しているのを見て驚きました。
そこで、ラクレット(Racletto)とは何か? これは本来チーズ名ではなく食べ方(料理)の名前だったと私は思います。1979年に出た「ラルース・チーズ辞典」や1984年にフランスのチーズ商が出した「Le livre d’Or Fromage(黄金のチーズ辞典)」等の解説ではラクレットとはスイスのヴァレー地方の郷土料理とし、その料理にはその土地のBagnes(バーニュ)やConches(コンシュ)などのチーズを使うと記しています。この料理名の由来は「削る=racler」というフランス語からきていて、チーズを火にかざして溶けたところを削って食べるからです。けっこう無粋な名前ですね。だから最初からこの言葉がチーズ名になるとは考えにくいのです。
この料理のルーツは夏山のチーズ小屋で、職人達が自作のチーズを暖炉の火にかざして食べていた簡単な食事だったのかも知れない。とすればこんなチーズの食べ方は数百年前からあったとしてもおかしくないですね。アルプスの少女ハイジが山のおじいさんの山小屋で食べた焼いたチーズが思い浮かびますが、この物語は130年以上前に書かれたものです。その料理?がラクレットオーブンという電熱器ができて、レストランやパーティーでブレイクしたのでしょう。そんな事情があって、やがてラクレットの名で、この料理専用のチーズができたのでしょう。そして、このチーズがラクレット・ド・ヴァレーの名でEUのAOP(原産地名称保護)を取得したのはつい最近の2007年になってからの事ですから、スイスチーズの長い歴史から見ればまだ新しいチーズなのです。
20数年前の初冬に、スイスのヴァレー地方に、チーズを暖炉の火で焼くというレストランに行ったことがあります。部屋にはいると暖炉が威勢よく燃えていて、店主はその熾火(おきび)でチーズを焼いていました。部屋中に強烈な匂いが漂っていて、ちょっと引いてしまったけど、食べてみるとこれが濃厚でとびっきりの旨さでした。無殺菌乳で作ったチーズだと聞かされ納得したのですが、これが、私が食べた最初の本場のラクレットでした。その後で谷間にある協同組合のさほど大きくないラックレットの工房を見学したのですが熟成室でフト、チーズの側面に刻印されている文字を見ると、それが、なんとチーズ辞典にラクレット用として出ていた「Bagnes」というチーズだったのです。
昨年の夏久しぶりにスイスのヴァレー州を訪れ、氷河の見える高原の、トレッカー目当てのラクレット小屋で薪ストーブで焼くラクレットを食べて感動したのですが、そのあとで、別の野外パーティーに招待されたときにも、小さなラクレット専用の薪ストーブでチーズを焼いてふるまってくれました。このようにスイスでは、屋外で気軽にラクレットパーティーを開くのだといいます。
こうして、夏のチーズ小屋で食べられていた簡単なチーズ料理がラクレットの名で世界にひろがっていったのでしょう。今ではフランス製のラクレット・チーズもあり、パリの農業祭(国際見本市)では盛大にラクレットを食べさせていましたが、合いの手はジャガイモではなく、生ハムのサンドイッチという豪華版です。所変われば品代る、ですね。