ダンチェッカーの草食叢書

第26回 石井好子さんを読んだ日はチーズオムレツを焼く

2024年8月10日掲載

食に関するエッセイは数々ありますが、チーズ好きの皆さんには『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』(石井好子著 暮しの手帖社 1963、河出文庫 2011)を愛読した方も多いのではないでしょうか。
石井好子さん(1922-2010)はシャンソン歌手として日本での草分けとして活躍された方です。音楽学校でドイツ歌曲を学び、戦後は求められてジャズを歌い、のちにシャンソンに転向しました。パリで歌手として活動し、フランス語の発音は完璧ではなくとも存在感のある歌唱が認められ、人気を博したそうです。

『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』

帰国し日本で活躍するようになってから、「食いしん坊だから、おいしそうな文章が書けるだろう」と見込まれて隔月刊誌「暮しの手帖」に連載を開始し、それをまとめたものがこの本です。
毎回20ページほどのエッセイの中で、話題は思いのままに移っていきます。パリ、東京、アメリカやヨーロッパ各地を舞台に、おいしそうな料理の話題が簡潔なレシピとともに続きます。連載当時はあこがれた読者はさぞ多かったことでしょう。
冒頭のパリの下宿でのオムレツの話題があまりに象徴的で有名ですが、発表当時はグラティネやスフレ、フォンデュなどのチーズ料理も強烈な印象を与えたことと思います。
続編の『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』(暮しの手帖社 1985、河出文庫 2011)では、文章にまとまりがでて独特の雰囲気はやや薄れましたが、登場する人物との会話が生きいきしています。
 

『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』『バタをひとさじ、玉子を3コ』

『バタをひとさじ、玉子を3コ』(河出書房新社 2011、河出文庫 2014)は、単行本に未収録だった1960年代から80年代までの食エッセイを集めて発刊されました。おいしい食事についての小文が楽しいのですが、中盤にパリで働く女性たちの悲哀を描いた話がはさまれ、おしゃれで楽しいパリの生活という幻想から抜け出させられます。
著作を読んでいくと、体調が悪かろうが毎日舞台に立ち続ける苦労、恋人と会えない期間や家族との死別など、つらいこともたくさんあったことがわかってきます。悲しいときでもごちそうを口にして体力を保ち、喜びを失わずに強く生きてこられたことが伝わってきます。
 

『石井好子のヨーロッパ家庭料理』

『石井好子のヨーロッパ家庭料理』(文化出版局 1976、河出書房新社 2012)は、ヨーロッパ各国の家庭を訪ねて料理を取材した「ミセス」誌の連載をまとめたものです。写真満載で各地域の風景や人々との交流が楽しい、これも名著といっていいのではないでしょうか。愛読者にとっては『巴里の空の下~』で読んだフランスの家庭料理が見られること、友人の朝吹登水子さん(サガンやボーヴォワールを翻訳した仏文学者)が登場することもうれしいと思います。

これらの著作から、遠くなった1970年代の東京やパリを感じられることも今では貴重ですが、何より石井好子さんの生き抜いていく意志の強さを強く感じます。
数々の本で教えていただいたレシピを参考に、おいしいものを楽しみながらがんばってまいりましょう。