『生物に学ぶ敗者の進化論』(稲垣栄洋著、PHP文庫、2022)を読みました。この本はなかなか面白く、示唆に富んでいます。大腸菌や乳酸菌などは核を持たない原核生物ですが、DNAを収納可能なアメーバなどが真核生物です。核を持てば多くのDNAを収納可能で、原核生物は真核生物に食べられてしまいますが、一部は真核生物の中で生き残ります。ヒトの腸内には何兆個もの腸内細菌が棲みついており、ヒトが食べた食物の一部をエネルギー源とし、ヒトは腸内細菌の働きによって健康的な生活を送っています。すなわち、原核生物は食べられて生きるという術を身につけました。
恐竜が地球上を闊歩していた頃、初期の哺乳類(ネズミ程度の大きさ)もひっそりと森の中に生息していました。やがて、巨大隕石が地球に落下し、地球の大部分は灼熱地獄となり、多くの恐竜は死滅しました。しかし、南極、洞窟、あるいは地中にて生息する能力を身につけた生物は生き延びることができました。
地上では強者に狙われ追われる生活をしていたサルは、木の上で生き延びる能力を身につけました。様々な種類のサルが出現し、マダガスカル島ではこれらの動物は現在でも生存しています(「地球最後の秘境マダガスカル」TV朝日 2023年4月9日放映)。やがて、道具を使う、火を使う、二足歩行するなどの能力を身につけたヒトが出現し現在に至っているわけです。
このように、生物の進化に共通している点は、力のある競争相手とまともに戦っては勝てないが、ニッチ戦略を考え出しその能力を身につけた生物は生き残りに成功したということです。昼がダメなら夜行動する、葉を食べられなければ草を食べる、海から陸へ、地上から空へ、などなど・・・。
昔から”失敗は成功の母”などと言います。弱者は失敗から強者に対抗する能力を身につけ生き残りました。つまり、弱者は進化したのです。
ニッチ戦略は商品開発や販売マーケティングにおいての常套戦略です。チーズでもニッチ戦略を考えることは有用です。生乳を放置していたら環境微生物により酸性となり、生じたカードを放置していたものが最初のチーズです。その後、ヨーロッパに伝播すると凝乳酵素を使うようになりましたが、伝播した土地のテロワール(気温、湿度、地形、食文化・・・)の違いにより様々なチーズが作られるようになり、土地ごとに似たような、あるいはまったく異なるチーズとなりました。これがヨーロッパにおける伝統チーズです。一方、アジアに伝播したチーズも伝播先のテロワールによって様々なチーズが誕生しています。しかし、インドでは宗教的な理由で、モンゴルでは放牧の習慣の違いにより、牡の仔牛を殺してレンネットを取り出すことをしませんでした。したがって、酸凝固タイプや熱凝固タイプのチーズが作られました。
一方、ヨーロッパ型チーズはアメリカにも伝播します。ところが、アメリカとヨーロッパではテロワールが異なります。そのため、伝統的なヨーロッパ型チーズを作ってもヨーロッパにかないません。そこで、伝統に対して新しい科学的知見を活用する戦略を推し進めました。そのために官学民が一体となり、酪農科学研究を行い、新しい作り方を考案しました。新しい作り方では機械化を可能とし、大量生産によるコストダウンを図りました。
オセアニアはプロセスチーズの原料となるチーズ(業界ではプロ原とも言います)を大量にかつ安価に製造し、日本を始め中国や東南アジアに輸出しています。
では日本はどうなのでしょうか?
日本でも伝統的ヨーロッパ型チーズを目指して日々取り組んでいる工房さんが沢山いらっしゃいます。その結果、日本のチーズは海外と肩を並べるほど向上しました。しかし、真似するだけではヨーロッパの伝統チーズには勝てません。そこで、日本各地の地場植物(花、ハーブなど)を利用、新たにGI登録がなされた十勝モールウォッシュなどのように地場温泉水の活用、さらには科学的知見に基づき味噌など地の発酵食品を活用したもの、地の微生物(麹、地場スターターなど)を使ったもの、など「日本」、あるいは「地域」の特徴を前面に出すことで、伝統的ヨーロッパのチーズと差別化したチーズが多数あります。また、チーズの大きさ、形状、あるいは包装を変えたもの(単に見かけが珍しいだけではなく、熟成条件や包装技術について相当な検討がなされています)があります。
チーズはすぐれた栄養成分を大量に含んでいるばかりでなく、健康を維持・改良する機能が知られています。それらの健康機能をもたらす成分(ペプチドや脂肪酸、あるいはそれらが変化した成分)の研究も進んできました。例えば、カマンベールチーズから見いだされたペプチドが脳機能の向上をもたらすことが分かってきました。このような科学的知見を活用したチーズなど健康機能訴求型チーズは将来性があるニッチ戦略だと考えます。
プロセスチーズは日本が得意とするチーズですが、ヨーロッパでは一般的にあまり好まれません。しかし、プロセスチーズの風味、物性、成型・包装・保存など技術をさらに向上させ、他国を寄せ付けないプロセスチーズに育て上げることが大切です。
先日、やや高級スーパーにぶらっと入った時、珍しく著名な国産チーズが置いてありました。しかし、手にしてみると値段が高くて棚に戻しました。日本全体で考えると、国産の工房製チーズは少量多品種生産の典型で、消費者が簡単には購入できません。なので、保存技術や包装技術など科学技術の知見を利用した新しい販売方法、あるいはロジスティックを工夫することも重要なニッチ戦略かと考えます。
「乳科学 マルド博士のミルク語り」は毎月20日に更新しています。
ⒸNPO法人チーズプロフェッショナル協会
無断転載禁