(3)乳を凝固させるもの
日本のチーズ業界にはチーズ誕生にまつわるアラビア民話というのが定着しています。C.P.A.のチーズ検定のテキストにも出てきますね。「アラビアの商人が羊(山羊)の胃袋で作った水筒にミルクを入れて旅立ち途中でミルクを飲もうとするとミルクが凝固していた。」これが凝乳酵素であるレンネット発見の物語の大まかな内容です。しかし、この話の内容を精査すると疑問だらけなのです。まず羊など反芻動物には胃袋は4個あり飛びぬけて大きいのが第1胃です。それに比べ凝乳酵素を分泌する第4胃は小さい上に、凝乳酵素を分泌するのは生後6ヵ月までだから、この物語では更に小さな幼獣の胃袋で水筒をつくった事になるのです。この様にこの物語を精査すると矛盾だらけなのですが、このお話はわれら農耕民族にとって衝撃的な話で、レンネットという凝乳酵素の説明には随分役に立ったと思われます。だから許しましょう。しかし、この話の出どころはどこか。それがずっと謎でした。ヨーロッパのチーズや乳関係の記録にはこの話は全く出てこなかった。それが2013年に出版されたアメリカのポール・キンステッドの『チーズと文明』に違った角度からこの物語にふれられています。従って日本に定着しているこの話はアメリカ発であった可能性は高いのです。
さて、チーズ造りの第一歩は、液体であるミルクを凝固させることから始まります。そこで乳をどのようにして凝固させるか。最も簡単なのは酸加熱凝固といって、乳を発酵させ酸度を高めたものを加熱して凝固させる方法です。しかし、この方法は凝固がゆるいので、硬いチーズには向いていない。そこで人類は、数千年かけて乳をしっかりと凝固させ、長期保存ができるチーズを造るための凝乳剤(レンネット)を作り出してきたのです。前出の『チーズと文明』には、人類がヤギやヒツジなどの反芻動物を群れで飼い始めるとまもなく、乳を凝固させるレンネットが乳飲み仔の第4胃に存在することを知ったのではないかと書いている。つまり、これらの動物の群れの中で乳飲み子が事故などで急死した時などに第4胃袋を開くと、そこには飲んだばかりのミルクが固まっているのを見たはずで、その塊を他の新鮮なミルクに混ぜるとそのミルクも凝固することを知ったはずだと書いている。そしてこれ等の事柄は紀元前7千年頃の事としているのです。
この様にして、ヒトはレンネットを発見しチーズ造りが始まるのですが、後に植物からレンネットを抽出する方法も発見します。最も古いのはイチジクの樹液でしょうか。紀元前8世紀頃のギリシャの詩人ホメロスが描いた叙事詩「イリアス」の中に、イチジクの樹液がミルクを見る間に凝固させていくという話が書かれています。更にはギリシャの哲学者アリストテレスも動物性と植物性のレンネットの働きについて書いている。最近はイチジクの凝乳剤の話はあまり聞かないので、数年前北イタリアのある小さな工房でこのことを尋ねると、時々イチジクも使いますよといっていた。
その他、植物レンネットとしてアーティチョーク(朝鮮アザミ)の雄シベがスペイン西部やポルトガルでは、今も広く使われています。でもこの花からレンネットを抽出するのはなかなか手間と時間がかかりそうです。チーズの生産が増えた現代ではバイオ・テクノロジーを駆使してカビから凝乳酵素を大量に生産する方法が確立され、これまでの動物性レンネットに加え微生物由来のレンネットが、生産量の多い工場などでは普通に使われているようです。
©写真:坂本嵩/チーズプロフェッショナル協会
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