原料乳とチーズのおいしさ
ヨーロッパの伝統チーズには、限定された地域で主として青草を食べた牛から搾乳された生乳を無殺菌のまま原料乳として使用するものが多々あります。特に、P.D.O.チーズの多くは厳格に原料乳を規定しています。では、規定を外れた原料乳からチーズを作ると香気成分や風味はどの程度変わるのでしょうか。このような疑問について調べたフランス人の研究論文があります(Buchin et al, J. Dairy Sci. 81: 3097-3108, 1998)。
フランス国立農学研究所(INRA)の研究者らは生乳を無殺菌または殺菌して使用する場合、ならびに標高300mの平地で牧草を食べた牛または標高900mの高地で干草を食べた牛から得た牛乳を用いた場合について、それぞれモルビエチーズ(教本 77ページ)を試作しました。試作したチーズは図1に示す8種類で、チーズの作り方は図2の通りです。
これら8種類について成分組成、微生物、香気成分などの化学分析を行い、併せて10名の専門パネル(JCAの審査員のように官能評価に関する訓練を日常的に行っている専門家)が香りと味について評価しました。生乳vs殺菌乳、および牧草vs干草の違いを統計解析するために、8種類のチーズで得られたデータを図3に示すように分類し統計解析しました。
その結果(表1)、香気成分では殺菌乳と生乳の間でいくつかの違いがありました。アルコール類とエステル類は生乳の方が殺菌乳より多く、ケトン類、酸類、アルデヒド類は殺菌乳の方が多いという結果でした。また、官能評価では新鮮なミルク感は殺菌乳の方が高く、ニンニク臭、酸化臭、苦味、辛味は生乳の方が強く感じられました。生乳では固有の微生物や酵素が含まれているために、殺菌乳に比べて乳成分が複雑に変化し、香気成分や香りが複雑になったと思われます。成分組成は両者で大きな違いはありませんが、生乳では脂肪が殺菌乳よりやや低く、相対的に固形分中のたんぱく質とカルシウムがやや高くなっています。全窒素中の水溶性窒素は両者に差はなかったことから、生乳でたんぱく質分解が進んでいるわけではありません。恐らく、生乳では脂肪分解酵素(リパーゼ)活性が高く、脂肪の一部が分解され、それ故に脂肪酸に由来する香気成分が増えたと考えられます。
一方、牧草と干草の違いは脂肪に影響を及ぼすので脂肪酸の違いは生乳の香気成分にも影響します。しかし、モルビエチーズになると、ベンゼン類と炭化水素類は牧草を飼料とした牛乳を原料とした方が干草を飼料とした場合より高い値となっていますが、それ以外の香気成分には大きな差は認められませんでした。官能評価でも牧草と干草の違いは殆どありません。
まとめると、生乳を使った場合には複雑な風味となるのに対し、殺菌乳ではシンプルな、穏やかな風味になる傾向と言えます。一方、牧草か干草かについては両者に大きな違いはないようです。殺菌乳から作ったモルビエチーズの方が日本人には食べやすいかもしれませんが、今一つ物足りないと感じる方もいらっしゃると思われます。
私は昨今の温暖化現象が牧草や環境中の微生物に影響し、放牧牛から作られたチーズの風味にも影響するのではないかと懸念していましたが、モルビエチーズではあまり気にしなくてもよさそうです。ホッ、でも他のチーズも同じとは限りません。油断してはなりませんゾ。