ピッツァの女神あらわれる!
ピッツァ(アメリカ風に言えばピザ)は、今や手軽なファースト・フードになってしまい、この食べ物を深く考える人はなさそうです。しかしピッツアの故郷はイタリアのナポリといえば、少しは伝統ある料理のような気がしますが、元はといえば貧しい人達が屋台で薄いパンに豚脂やハーブなどの素材を載せて食べたのが始まりとされています。それが今のように世界中の人達に食べられるようになるのは、それほど古い事ではないのです。
ピッツァの元になった平焼きのパンは、要するに小麦粉を水でこねて薄く焼いたもので、その歴史は数千年前に遡りますが、古代エジプトの時代には発酵パンが生まれます。以来ヨーロッパを中心にパンの文化が広がっていきますが、一方では平焼きパンの子孫はいまでも世界の各地に残っています。例えば中華鍋をひっくり返した様な鉄板で焼くトルコのユフカや、西アジアからインドで作られるナンなどが平焼きパンの典型でしょうか。ヨーロッパには、南フランスのフーガス、アルザス地方の四角いタルト・フランベ。イタリアのサルデ―ニャには羊飼いのパンといわれる薄く焼いたパーネ・カラザウがあります。これらの平焼きパンは、何か具材を載せたり挟んだりして食べますが、ナポリのピッツァのルーツも粗末な平焼きパンに具材を載せたごくシンプルな食べ物だったようです。
16世紀にスペイン船が南米原産のトマトの種をナポリに伝えますが、当時トマトは観賞用で、その100年後の17世紀の後半になりやっとナポリ人がトマトソースを発明します。そんな時代にピッツァも料理としての形を整え、1720年代以降にはナポリに次々とピッツェリアが誕生するのです。こうして下町の貧しい人達の食べ物だったピッツァは庶民にも知られるようになりますが、まだ上流階級には知られていない、ごくローカルな料理だったようです。そんなピッツアに女神が現れます。19世紀の後半、イタリア第2王国の王妃マルゲリータは、当時流行したフランス料理より民衆の食べ物を愛する庶民派として知られていましたが、ある年ナポリを訪れた王妃はピッツァを所望します。そこで、ブランディというピッツェリアの職人が呼ばれ、王妃のために3種のピッツァを作りますが、その中で王妃のオメガネにかなったのが、モッツァレッラとトマトとバジルを載せたものでした。後にその職人は抜け目なく、そのピッツァに「マルゲリータ」の名を冠して売り出し、これがナポリ・ピッツァの古典の一つになるのです。写真はそのブランディのマルゲリータです。こうしてナポリのピッツアは次第に知られるようになっていくのです。
20世紀になると南イタリアから多くの移民がアメリカに渡り、ニューヨークにはリトル・イタリーと呼ばれる地区が生まれる。彼らはそこでピッツアの店を開きます。それが短期間にアメリカの食文化に馴染み、フランチャイズの店ができて宅配ピザも生まれます。そして、そのアメリカでも、論議を呼んだパイナップルを載せたピザを初め、突拍子もない変種のピザが次々と生まれ本家のイタリアを脅かします。危機感を強めたナポリのピッツェリアの職人達は1984年に「真のナポリ・ピッツァ協会」なる物を立ち上げます。そして、所属する職人には協会が定めた厳格なルールに従ってピッツァを作らせ、合格した者に認証を与えるという方法で、伝統あるナポリのピッツァを守る運動を始めるのです。
©写真:坂本嵩/チーズプロフェッショナル協会
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