暗やみの洞窟で育つチーズ
スペイン北部、バスク州の西隣にあるカンタブリア州は海岸から30km足らず内陸に入ると、石灰岩でできた2000mクラスの尖塔状の峰が連なっていて、このあたり一帯をピコス・デ・エウロパ(Picos de Europa)と呼ばれている。1970年代にスペインの画家、ゴヤの長大な伝記を書いた作家の堀田善衛氏はこの州の小村で暮らし数点のエッセイを残しているが、その中で、この地方の岩峰群をヨーロッパの尖塔と訳し、その面構えの厳しさは只事ではないと書いている。堀田氏は懇意になった村の人達に勧められ(だまされ?)て奥さんが運転する車で肝を冷やしながら、この谷間に分け入った話が書かれているのだが、そこは、どうやら我々が辿ろうとしている谷のようだ。氏はエッセイの中で「このあたりの名産のチーズは、山がけわしいために山中で出来る牛乳その他を平地に降ろすことが出来ないために、牛、山羊、羊等の乳をまぜこぜにして作ったもので、それは途方もない強烈な匂いを放つ…」と書いている。(スペイン断章(上)集英社文庫より)このチーズこそ、我々がこれから訪ねようとするカブラレスらしいのである。
ある資料によれば、この辺りにそびえる石灰岩の山脈には数多くの洞窟が存在し、それも、深さ(長さ)が1000mを超える洞窟が3つもあるという。「山はスペインの救いである」という言葉があるが、伝説によれば、8世紀にこの洞窟がイスラム勢力の侵攻を防ぎスペインを救ったとあるが、これらの洞窟がまた、他では見られない個性的な青かびチーズも生んだのである。
山並みに沿うように東西に走る144号線上のラス・アレナスという町から、出迎えの車に先導され、川沿いの道を岩峰群の懐に分け入る。奥には2000m超のむき出しの岩山が連なっている筈なのだが谷に入るとミニバスの窓からは、削られた岩壁しか見えず全く写真にならない。曲がりくねった山道をしばらくゆくと、V字峡谷がU字に開けて斜面がややなだらかになると、そこには30戸ほどの集落が軒先を接して並でいた。入り口にはTielveという集落名の標識が立っていて、先導の車はその前で停車。外に出ると村の背後には、峨々(ガガ)たるという古い表現がぴったりの岩山が連なっている。
我々はそこから小さな谷川にかかる石橋を渡り対岸の断崖の下に案内された。そこには岩を積んだだけの小さな入り口らしきものがあり、ここがケソ・カブラレスの熟成庫らしい。ひとしきり説明を受けてその洞窟の中に入る段になると、この熟成庫には照明設備がない。ヘッド・ランプを貸してくれたが数が足りずランプにアブレた人はスマホの明かりを頼りに暗闇をすすむ。中に入ると、チーズを載せた棚板が並んでいたが、低い天井からは地下水が滴り足元はぬかるんでいた。しかも棚板に並べられたチーズの上にも水滴が降ってくる。私はこの光景に衝撃を受けた。これまでみたチーズの熟成庫は整然としていて衛生には細心の注意を払い、見学者は宇宙服まがいの服を着せられるが、ここは全くの別世界だ。仲間達は五分ほどで音を上げ外に出た。坂道を下りながら考えた。我々の常識では考えられないこの様な環境の中で、いつ誰がどんなチーズを目指しこの洞窟を熟成庫に選んだのか。そして、この異様な環境からスペインを代表するブルーチーズが生み出さているという事実。おそらく数百年かけて様々なチーズが淘汰され、この洞窟だからこそできるカブラレスというチーズが生き残ったのだろうか。