ある年の春、ナポリの海岸にあるホテルに宿をとった。カンパニアの平原のカプア近郊で、水牛乳から作るモッツァレッラの工房を見学。水牛乳のモッツァレッラの旨さに感激した後、このモッツァレッラを使ったピッツァを食べるためにナポリにやってきたのである。翌日、朝早くに一人で港に出ると海の向こうにはヴェスヴィオ山のシルエットが間近に見えた。
ほぼ二千年前、このヴェスヴィオ山は突然大爆発を起こす。この時ローマの博物学者で当時のチーズについても記録を残したプリニウスは、ナポリ湾の西の港に海軍司令官として滞在していたが、好奇心に駆られ大胆にも高速船を仕立てて対岸に渡り、火山ガスにまかれて命を落とすのである。
さて、話をピッツァに戻そう。この食べ物は19世紀後半頃までは、ナポリの貧しい人達のソウルフードで、屋台などで立ち食いされていた。しかし、19世紀後半になると、美食に飽いた上流階級の間では、ピッツァを密かに愛好する者も現れる。そんな中で、ピッツァにその名を残すことになったのが、イタリア王国の二代目の王、ウンベルト1世の妃、マルゲリータである。一種の伝説のような話だが、普段宮廷でのフランス料理にうんざりしていた王妃は、1889年ナポリを訪問した際にピッツァをご所望になった。そこで呼ばれたのが「Brandi」という店の職人で、彼は三種類のピッツァを献上するのだが、その中でモッツァレッラとトマト、それにバジルを載せた物が王妃のお気に召した。これは単にピッツァ・アッラ・モッツァレッラと呼ばれていた物だったが、その職人はこれを「ピッツァ・マルゲリータ」と命名し店の看板メニューにする。(ピザの歴史:「食の図書館」)
我々をナポリのピッツェリアに案内してくれた人は、詳しいことは何も話さず、洗濯物が万国旗のようにはためく路地の奥にある店に連れていった。入り口にはピッツァを持って馬に乗った貴婦人が描かれたポスターが貼ってある。この店こそが「ブランディ」だったのだ。その時はさほど気にも留めなかったが、後で写真に撮ったポスターの文字を読み取ってみると、1889年にこのピッツァ・マルゲリータが発明されたと書かれていることがわかり、大変なところに行ったのだと気が付いたが後の祭り。この店では、写真を撮り、数種類のピッツァを満喫しただけで引き揚げてきたのであった。
ナポリ名物のピッツァがイタリア中に広がったのは第二次世界大戦後で、その後、特にアメリカに渡ったピッツァは独自の進化を遂げ無数のバリエーションを生む。こうした状況に、危機感を持ったナポリの職人達は伝統を守るべく1984年に「真のナポリ・ピッツァ協会:略称A.V.P.N」を立ち上げ、ナポリ伝統のピッツァの材料や調理法などを厳格に定め、ピッツァ・ナポレターナのD.O.C.(原産地名称保護)の獲得に向けて動き出す。そして1997年にはD.O.C.を勝ち取ったという。現在A.V.P.N.が認める、真のナポリ・ピッツァは「マルゲリータ、マリナーラ、マルゲリータ・エクストラ」で、エクストラには生のチェリートマトが使われるとか。ちなみにA.V.P.N.認証の店は日本にもある。