カナリア諸島には七つの島があるが、すべての島に空港があり、普通、島と島の行き来は飛行機を利用するが、ゴメラ島の飛行場の滑走路は短く小型機しか発着できそうもない。更に辺鄙なところにあり、港町までは山を越えなくてはならない。だからゴメラ島へはフェリーで行くのが普通のようだ。この島は諸島の西側にある三つの小さな島の一つで、直径が25km足らずの、ややいびつな円形の火山島だ。海岸線のほとんどは波が打ち付ける断崖で、港でさえ島の南側に三ヵ所あるきりである。そんな訳で、我々も20km余り東にある最大の島テネリフェの港から船に乗った。
カナリア滞在中に止むことがなかった、一定方向からのやや強い風は、海に出ると更に強くなり海面は白波が立つっている。これが「貿易風」というものなのだろうか。少年の頃読んだヨーロッパの海洋小説に貿易風という言葉がしばしば出てきたのを思い出した。調べてみると18世紀、大西洋を横断する商船の間で、一定の経路を吹く風を貿易風と呼んでいたとのこと。カナリア諸島は北緯27度近辺にあるので。常に北東からの貿易風が吹いているのだという。コロンブスもこの風をとらえるべくカナリア諸島から、西周りでインドを目指すのだが、なぜか出発地点はこの小さなゴメラ島の港からなのである。
我々がこの火山岩でできた島にやってきたのは、荒野に山羊を放ち、特有のチーズを作っている工房を訪ねるためであった。フェリーを降りると、待っていたマイクロバスに乗り込む。ここは島最大の町、サン・セバスチャン・デ・ラ・ゴメラ。大型フェリーが発着できる唯一の港町だ。
バスは動き出すとすぐに七曲りの坂道に取り付き高度を上げていく。あたりの風景は固い岩がむき出しの岩山と深い谷が続く。島自体は小さいので1時間もしないうちに、かなり標高の高い所の岩棚に作られたチーズ工房に到着。だが、時間的にはチーズ製造は終わっていて、山羊の群れはすでに野に放たれたのか、畜舎は空っぽだった。しかし、我々に見せるために珍しい山羊を二頭残しておいてくれたのだ。そして、ご主人が手搾りで搾乳の実演さえしてくれたのである。実際の作業は搾乳機だと思うが。そして工房では製造器具を手にとりながら、チーズの製造工程を熱心に説明してくれる。おそらく、これまでも、これからも、遠い日本からこんな所までチーズを見に来る人などいないだろうから、その意気込みが伝わってくる。そして、最後は表面にピメントとハーブをまぶした、ご自慢のケソ・ゴメロ(Queso Gomero)というチーズを試食させてくれた。形はしっかりしているが、カードに細かい隙間が無数にある組織の柔らかいチーズだった。
外に出てみると工房の北側は深く広い谷で、人家はほとんど見えない。6月というのに山肌は茶色で緑は乏しい。そのような荒涼とした広大な谷間に、放牧されているという山羊の群れを探したが見つからない。とその時、ガイドのおばさんが突然、指笛を大きく吹き鳴らし、それが風に乗って谷間にこだました。私はアッという思いにとらわれた。そうだ、あの風景だ。偶然にも旅の少し前に、ぼんやりとTVを見ていると、指笛で会話する島があり、島の人達がその技を披露していたのを思い出したのだ。そうか、この島だったのか。この人影もまれな広い山中では、肉声は届かないから、山羊を追う牧童たちは指笛で会話したり、山羊を集めたりしたのだという。ガイドのおばさんはその達人らしく、我々が拍手喝采すると、マイクロバスの中は、耳をつんざくような指笛の音がいつまでも響いた。
カナリア最後の島ゴメラの取材を終えてフェリーで港を離れるとき、再度コロンブスの事が頭をよぎった。今から525年前にこの島に寄港し、1492年9月6日の朝、コロンブスは三艘の帆船と共にゴメラ島を出発。港を出るとすぐに、大きく左に旋回して西を目指すのである。「コロンブス航海誌:岩波文庫」には、ゴメラ島からは、隣のテネリフェ島のテイデ山(3718m)の峰から火が噴きだしているのが見えたとあるが、この日、山は雲の中だったが、現在火は吹いていなようだ。こうした思いにふけっている間に、早くもテネリフェの港に到着。そして、これでカナリア諸島チーズの旅は終わりを告げたのであった。