ポルトガルの首都リスボンはテージョ河の広大な河口湖の畔に作られた町である。水辺の遊歩道は歴史的建造物が多い快適な散歩道だ。そこには壮大な修道院や司馬遼太郎氏が「はじめて社交界に出た少女の頬のようにういういしい・・」と表現した小さなベレンの塔、そして、大航海時代を開いた、エンリケ航海王子の没後500年を記念して建てられた「発見のモニュメント」がある。その後ろの地べたにモザイクで描かれた世界地図があり、ポルトガルが「発見」した国にはその年代が描かれている。それによると、日本は1541年に発見された。この年代は種子島以前にポルトガル船が豊後(九州)に漂着した年代なのだが、遭難した彼らを助けたのに、日本を発見したなんてちょっと面白くない。それはそれとして、日本にやってきたポルトガル人やフランシスコ・ザビエルなんかも、このベレンの塔を右手に見ながら長い航海に出て行ったのである。
ヨーロッパ人として最初に日本に来たポルトガル人は、様々な物を日本に伝えているのだが、彼らは、日本へチーズを持ってきたかというと、それがよくわかっていない。以前あるチーズ研究家が書いた本には、ポルトガルより後に来たオランダ船がチーズを持ってきて来たと「平戸オランダ商館の日記」にあると書いるが、ポルトガルについては、食糧として船に乗せた記録があるとのみ記され、それは多分ボラだろうと書いている。当時チーズの資料など皆無に等しかったから、このボラなるチーズは多分羊乳のチーズ、エヴォラ(Évora)ではなかったか。これなら産地もリスボンに近い。しかし、当時の東洋への航海は過酷だった。小さな船で酷暑の赤道を2回も通過して何ヵ月もかかった。このような旅に脂肪分が高くやや柔らかいエヴォラが日本まで到達できただろうか。その点、オランダの硬質のチーズのエダムなら1439年にはすでに輸出されていたというから長旅に耐える可能性は高い。しかし、このオランダチーズもダニが無数に繁殖していたと書かれているという。
そんな疑問や期待をもちながら、日本を発見した国にはどんなチーズがあるのか、という命題を抱えてリスボンの東方50kmのエヴォラに向かったのである。
ポルトガルのチーズに関してはこのシリーズで何回か書いたので、今回は問題のエヴォラについて少し詳しくレポートしてみよう。エヴォラはローマ時代に建てられた古い街で、堅固な城壁の内側には寺院、大学などを含む古い建物がびっしり詰まった迷路のような世界遺産の町である。
この町の郊外にあるエヴォラの工房を訪ねると、女性の職人が手作りで数種類のチーズをつくっていて、その中にエヴォラもあった。直径10cmほどの小型のチーズだが、エヴォラはポルトガルを代表するチーズの一つで、かつては貨幣として使われたと物の本にある。メリノ種という羊の乳をアザミのオシベからとった植物性のレンネットで凝固させ、一か月以上熟成させる。エヴォラの町で見つけたエヴォラ(一個1.6ユーロ、安い!)を手に取って、このチーズが大航海時代に日本にきたかも知れないんだ、と思うとちょっとした感傷を誘う。このエヴォラはやや熟成が進んでいてスパイシーで濃厚な味がした。そして、この古都エヴォラには、今から四百数十年前、出発時には13~14歳だった少年4人が遣欧使節としてヨーロッパに派遣され、2年かかってリスボンに到着。
その後このエヴォラの町に招かれ、二人の少年がこの町の大聖堂でパイプオルガンを演奏したのだという。そのオルガンも見ることができ、チーズによる不思議なえにしに更なる感慨に浸り、翌日は他のポルトガルのチーズを発見するために北へ向かったのである。