2024年のノーベル賞は物理部門も化学部門も共にAIの利用技術向上に関するもので、化学部門ではAIを利用してたんぱく質の構造を予測し、医薬品の開発などに貢献したことが主な受賞理由でした。AIとはartificial intelligence(人工知能)の略で、たんぱく質に関する様々な知見を網羅的に検索し、目的のタンパク質の構造を推定する方法です。といっても、筆者はAIについては全くの素人で、この手法を用いてカゼインやカゼインミセルの構造を推定することが可能なのか分かりません。
昨年12月、AIを利用して、カゼインの構造を研究されている福島大学の西尾俊亮先生の話を伺う機会がありました。それによれば、たんぱく質の構造を調べるために直接あるいは間接的に得られた科学的情報をコンピュータで検索し、最も合理的な結論を導き出します(図1)。いくつかの方法が知られており、一つはたんぱく質を結晶化しX線で構造を調べます。しかし、カゼインを結晶化することは今日まで成功していません。
別の手段とし電子顕微鏡を使い、たんぱく質溶液を急速冷却し、電子線を当てて構造を調べる方法があります。カゼインミセルのクライオ電子顕微鏡写真については何人かの研究者が撮影しています。これにより、カゼインミセルのナノクラスター説(図2-1)が提案されています。しかし、カゼインミセルの構造については昔からサブミセル説(図2-2)もあり、ナノクラスター説が有力視されていますが、完全に決着しているわけではありません。
また、ナノクラスター説にしても細部については仮説の域を脱してはいません。三番目の方法は小角X線散乱という方法によるもので、高エネルギー加速器研究機構の高木先生らが水ドメイン内包モデル(図3)を提案しています。
たんぱく質の一次構造(アミノ酸の配列)に関する情報も必須です。アミノ酸には中性付近にてマイナスやプラスの電荷を示すもの、疎水性(水との親和性がない)や中性であるもの、あるいは反応性の高いアミノ酸(システイン)など様々です。これらが近づくと反発したり、引き合ったりするため特定の構造をとります(二次構造)。アミノ酸配列は遺伝子解析すれば正確に求めることができます。なので、膨大なアミノ酸の組み合わせをコンピュータで計算すれば二次構造を求めることができます。
しかし、カゼインに含まれているセリンにはリン酸が結合しているものと結合していないものがあります。しかも、リン酸にはカルシウムが結合し、そのカルシウムにさらにリン酸が結合してミセル性リン酸カルシウムの結合体(ナノクラスター)を形成しています。また、κ-カゼインに含まれているスレオニンには糖鎖が結合しているものと結合していないものもあります。なので、二次構造を知ることが極めて困難です。1970年代には分光学的な手法(例、円二色性(Circular dichroism, CD)を用いてカゼインの二次構造を調べる研究が盛んに行われていました。当時の論文にはαヘリックスが何%、βシート構造が何%などと発表されていましたが、論文によって様々でどれが正しいのか分かりませんでした。生乳から各カゼインを分離精製して測定に供するのですが、精製技術の問題で不純物が含まれるために正確な測定が難しかったためと考えられます。現時点ではカゼインは規則的な二次構造を持たないランダム構造なのではないかと考えられていますが、一部ヘリックスやシート構造が混ざっている可能性は否定できません。
カゼインやカゼインミセルの構造を、AI技術を利用して解明することが難しい理由で大きなものは、医薬品に利用できるたんぱく質やペプチドに関する研究は世界中で行われ、論文も大量にあります。それに対して、カゼインについては研究者が少なく、論文も少ないのが実態です。すなわち、検索可能な科学情報が足りないのです。しかし、諦めることはありません。チーズ、ヨーグルト、粉乳などの製造や利用に関する情報は豊富です。加熱すると伸びる性質、熟成すると風味が向上したり劣化したりする現象、などなど様々な物理的、化学的性質はカゼインやカゼインミセルの構造と関連しています。なので、このような食品科学的情報をカゼインやカゼインミセルの構造との関係を考察すれば、AI利用の重要な情報源となり得ると考えられます。
例えば、モッツァレラチーズに炭とデンプンを加えると伸びが驚くほど向上する現象(本コラム、2022年5月20日)も、カゼインやカゼインミセルの構造と関連させた実験を行えば貴重な情報が得られると考えられます。粉乳を製造する際に加熱温度が高いとκ-カゼインがミセルから分離するのは何故か、キモシンの作用でκ-カゼインの親水性箇所(CMP:カゼインマクロペプチド)が分離すると、ミセルは凝固してカードが生成しますが、加熱によりκ-カゼインが分離してもカードは生成しないのは何故か(ホエイたんぱく質が関連していると考えられていますが詳細は分かっていません)。このように、カゼインやカゼインミセルの構造や特性と深く関係する食品科学的情報を論理的に説明できるようになれば、新しいチーズや乳製品が誕生し、よりおいしくなる調理技術が開発され、豊かな食生活をエンジョイできるようになると考えられます。
「乳科学 マルド博士のミルク語り」は毎月20日に更新しています。
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