乳科学 マルド博士のミルク語り

大正時代初期の乳製品

2022年10月20日掲載

大正時代の文化は「大正ロマン」とも言われ、なんとなく世の中が発展の方向に向かっている印象があります。写真は京浜東北線与野駅付近で毎年秋に行われている「大正祭り」にて行われた仮装行進の模様です。これは大正元年11月1日に与野駅開業80周年を祝して行われた行事で大正時代の服を着た女性たちがしゃなり、しゃなりと歩き、お縄となったどろぼうはしょんぼりと歩いています。行進の殿は海軍の水兵たちの行進です。

では、この頃の乳製品はどんな状況だったのでしょうか。農商務省が大正7年に発行した統計資料(表参照)によれば、大正4年において国内生産していた乳製品は煉乳、バター、ヨーグルトが主なもので、チーズは微々たるものでした。煉乳では1位は千葉県、2位は静岡県、北海道は3位です。安房地区の嶺岡牧から乳牛を東京の雉子橋に連れてゆき、煉乳を固めた「白牛酪」を作っていました。明治になるとこの技術が地元に伝わり、煉乳製造者が乱立しました。やがて、複数の大手菓子メーカーが煉乳製造者を取り込み、「房総煉乳」は千葉で、「花島兵衛門」は三島にて煉乳を製造しました。北海道では「七重勧業試験場」にて煉乳についても試作しましたが、エドウィン・ダンら米国人には煉乳製造の経験がなく、濃縮中に生成する乳糖の結晶(ざらつきの原因)にてこずりました。ダンが真駒内牧牛場を開いた後、「井上釜」と呼ばれる濃縮釜が開発されてから煉乳の品質が向上し、煉乳製造が盛んとなりました。なので、北海道では道南地区ではなく道央地区が中心となりました。


バターは北海道、東京府、千葉県の順でした。北海道はトラピスト修道院をはじめ28カ所の製造所があり、東京府では35カ所でバターを製造していました。東京府では大島、八丈島、三宅島など島嶼部でのバター生産が盛んでした。
ちなみに、バターを作った時に得られる脱脂乳はどうしていたのでしょうか。一部は仔牛に飲ませましたが、それでも脱脂乳は大量に残ります。現在ならご存じのように脱脂粉乳にしますが、明治末期から大正にかけて農商務省の統計資料には粉乳については記載がありません。つまり、少なくとも商業用の粉乳は生産されていなかったと考えられます。しかし、「七重勧業試験場」では粉乳の試作が行われており、1876年(明治9)に明治天皇が函館方面を行幸され、「七重勧業試験場」を訪問された際、粉乳、乾酪(チーズ)、ボートルアイスクリーム(bottle?? ボートルの意味については不明)を各一瓶献上したことが「明治天皇御巡幸記」(北海道庁、1930)に記載されています。しかし、「七重勧業試験場」には粉ミルクに関する資料や設備は一切残っておりません。インスタントコーヒー用の噴霧乾燥機がすでに実用化されていたかどうかは分かりませんが、個人的には、例えば加熱した円柱状のドラムに脱脂乳を滴下し、乾燥した粉をかきとるといった製法ではなかったかと考えます。
大正4年の農商務省の統計には記録はありませんが、大正5年から登場してきたものがカゼインです。カゼインは戦闘機の接着剤として使われたことが知られています(本コラム、2021年9月21日)。ですが、国産飛行機が開発されたのは明治末期ごろですので、大正初期には飛行機用の接着剤としての需要は一般的ではなかったと思われます。なので、食用か工業用かは分かりませんが、脱脂乳を酸凝固させてカゼインを作った可能性はあります。実際、大正5年におけるカゼイン生産量は伊豆大島が中心となっています。
ヨーグルトは大消費地である東京府の生産額が圧倒的に多く、北海道は2位ですが、東京府には遠く及びません。東京府には愛光舎をはじめ9カ所で製造されていましたが、北海道では時任農場(本コラム、2022年6月20日)など3カ所のみでした。
チーズは、大正4年には北海道のトラピスチヌ天使園と宇都宮仙太郎の2カ所、兵庫県では坂口林太郎と淡路酪農試験場の4ヶ所のみでした。大正5年になると、北海道亀田郡のトラピスチヌ天使園を筆頭に大分牧畜株式会社、北海道木古内村の竹本次男の順となっています。大正6年になると天使園がチーズ生産の筆頭で、2位が木古内村の鈴木牧場、3位は兵庫県立淡路酪農試験場、4位が大分畜産株式会社と続いています。木古内における竹本次男と鈴木牧場には何らかの関係があったと思われますが、現時点では不明です。また、大分牧畜あるいは大分畜産会社によるチーズ生産については今後の検討課題です。


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