乳科学 マルド博士のミルク語り

阿南陸相が食べたチーズ

2021年7月20日掲載

今年の1月に老衰のためご逝去された半藤一利氏が書かれた『日本のいちばん長い日』(文藝春秋社、2021年第32印)は先の大戦で終戦を決めるまでの混乱を史実に基づいて描いた名著です。お読みになられた方々も多いと思います。
1945年8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れ連合国に全面降伏し、8月15日の正午には昭和天皇による玉音放送がありました。ポツダム宣言の受け入れを巡る閣議は混乱し、ついには広島と長崎への原爆投下に至るのですが、天皇のご意向や閣僚の多くがポツダム宣言受入もやむなしという意見の中、陸軍大臣であった阿南惟幾大将が断固反対しました。しかし、天皇陛下のご意向を受け、8月14日にはポツダム宣言を受け入れることが決まり、内閣は総辞職し阿南陸相も辞任しました。その日の夜、正確には8月15日を迎えた深夜、阿南陸相は陸相官邸にて最後の晩餐としてわずかばかりのチーズをつまみに日本酒を飲み、「一死を以て大罪を謝し奉る」との遺書を残し、官邸の廊下にて自刃しました。ここに記載された「わずかばかりのチーズ」は恐らく玉音放送直前に日本人が食べた最後のチーズではないかと推測できます。では、どんなチーズだったのでしょうか?国産だったのか、海外から持ち込まれたチーズだったのでしょうか?大変興味深いのですが資料が見つかりません。そこで大胆な推理をしてみました。

戦前、乳業メーカー各社は本格的にチーズを生産していました。生産量は1940年時点で年間262トンでしたが、終戦の年1945年にはわずか86.6トンにまで落ち込みました。(表参照(栢、酪乳史研究 No10:5-8, 2015)
各乳業メーカーでもチーズの生産を中断していたため、終戦の年に約87トンも生産されていたのは驚きです。戦時中は健康な青年と壮年は兵隊として招集され、労働の中心は高齢者、女性あるいは学生が担っていました。彼らは食糧、武器・弾薬、車両、被服など軍需物質の生産に従事していました。さらに、全国でB29爆撃機による空爆をうけ、物資の輸送もままなりませんでした。そのような状況下で、生活必需品ではないチーズを86トンも生産していたとは驚きです。
戦時中は生乳からカゼインを作り、軍に納品していました。これについては2017年6月20日のC.P.A.コラム(戦闘機とカゼイン)に書いてありますので、是非参照してください。このようなカゼインは酸凝固やレンネット凝固チーズとも言えるので「チーズ」の一種として計上されているのか、「チーズ」とは別扱いだったのか、その辺りは分かりません。いづれにしても、戦時中に国内で製造されたチーズが陸軍省に持ち込まれていたとは考えにくいのです。

阿南陸軍大将は1941年には第11軍司令官、次いで第2方面軍司令官として中国大陸にいました。東京に戻ったのは陸軍航空総監部兼航空本部長に就任した1944年12月からでしたので、チーズを入手したとしたらそれ以後だと考えられます。
では、海外から持ち込まれたのでしょうか。ヨーロッパから日本への移動手段として陸路が考えられますが、独ソ戦により不可能だったでしょう。海路もまた、連合国側に抑えられ船舶の殆どは撃沈されています。ただ、1943年6月1日に日本からドイツに派遣された伊号第8潜水艦がドイツ占領下にあったフランスのブレストに入港し、任務を果たして1943年12月21日無事日本に到着しました。この潜水艦には駐独大使館付駐在武官の海軍少将など10名余りが同乗し帰国したことが知られています
(宮永 孝、社会労働研究 42(2): 1-51, 1995)
文献にはドイツから積み込んだ物資のリストが掲載されていますが、残念ながらチーズを持ち帰ったとの記載はありません。電波探知機(レーダー)の操作法を修得するためにベルギーに行った同潜水艦乗組員の将校と水兵数名は「ベルギーではバターやチーズ類を見なかった」と証言しています。ということは逆にブレストではバターやチーズが提供されたことを示唆しています。なので、チーズが潜水艦によって日本に持ち込まれた可能性はあると推測します。しかし、阿南大将が東京に着任したのは、伊号8潜水艦が帰国した1年後です。時期が合いません。仮に海軍からの土産であるチーズを陸軍がもらったとしても、官邸内のどこかに放置されたままだったのでしょうか。放置されていたいつのものかも分からないチーズをどうせ自刃するからと考えて食べたのでしょうか?依然として謎は残ります。


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