世界のチーズぶらり旅
可愛らしい名前のヤギ乳チーズの里へ
初夏とはいえ、強い太陽が照り付けるローヌ川左岸の、緩やかに起伏する田舎道を走っていた車が、牧草地の中にある家の門前で停車した。見学を予定していたチーズ工房である。工房の広大な敷地は南北に細長く柵で囲まれ、その中に住宅とチーズ工房、そして北側には畜舎があり、門前の広い牧草地には干し草の巨大なロールが転がっていた。
一番刈りの牧草だろうか。そして敷地の中に入ると工房のわきの木には真っ赤なサクランボが実っていた。この工房ではピコドン(Picodon)という可愛らしい名前のヤギ乳チーズを作っている。だが後でそのチーズ名前の意味を調べて見ると、ピコドンのピコは「オック語」の辛いという意味だというから、あまり可愛くない言葉らしい。
話はそれるが、南仏を語るときにしばしば登場する、このオック語について少し書いておこう。南フランスの一部をラング・ドック(Langue d’oc)と呼ぶが、これは「オック語の国」という意味だ。この言語では、肯定の(はい=yes)をオック(oc)といい、これがこの言語名の由来である。そしてフランスの北方の言葉をラング・ドイル(Langue d’oil)といった。この言葉の yes はオイル(oil)だったらしいが、後にそれが変化してウィ(oui)となる。やがて北方のオイル語の民族がフランスを支配し現在のフランス語が出来上がるのである。少々面倒くさいが、南フランスを旅すると、この言葉の語源はオック語ですという話がしばしば出てくるので知っておいても損はない。別名プロヴァンス語ともいう。
さてチーズの話である。日本であまり知られていない、この山羊乳製のピコドンはローヌ川下流域の西岸にあるラルデッシュ県と東岸のドローム県で作られ、かつては西の物はピコドン・ラルディッシュ、東で作られるものは、ピコドン・ド・ラ・ドロームと、2つのA.O.C.名を名乗っていたようだが、今では一つのA.O.P.に統一されている。
この辺りは乾燥した気候の、いわゆる南仏圏内だから夏は暑く乾燥していて、冬になれば「ロバの耳をも吹きちぎる」といわれる乾燥した烈風「ミュストラル」が吹く。従ってパリ盆地のようにみずみずしい草は育たない。だが短くとも香り高い多くの種類の野草が育つ。だから、この地方では古くから何でも食べる山羊が多く飼われていたのだという。そんな環境から生まれたのがこの小さなチーズ、ピコドンというわけである。
筆者もあまり馴染のないこのチーズを調べてみると、様々な熟成の仕方で作られてきたようだ。ラルース・チーズ辞典にはこのチーズは壺の中で熟成させピリッとした風味を育てる物や、葡萄の葉で巻いて熟成させる方法を紹介している。
また、文芸春秋社の「チーズの辞典」ではピコドンの9種類の熟成違いを写真入りで紹介している。このような独特な熟成方法でこのチーズは、ピコドンの語源となる辛い(Piquant)風味を育ててきたのだろうか。だが、パリの有名なチーズ店の主人マリー=アンヌ・カンタンは近頃のピコドンはちっとも辛くないと書いている。
訪れた工房では作業あらかた終わっていたが、女性の職人による型入れ作業を見せてもらった。その後はお定まりの試食タイムだが、試食したピコドンは、マダム・カンタンの言う通りちっとも辛くなかった。ふとプレゼンルームに飾られていた籠の中のチーズを見ると、形は全く同じながら、5種類ほどのラベルの違うチーズが入っていた。A.O.P.認証の製品だけではやっていないのだろう。こんな例は工房を回るとしばしば見られた。
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©写真:坂本嵩/チーズプロフェッショナル協会
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