先月に引き続いて、カナリア諸島のグラン・カナリア島の話である。この島は七つの島のほぼ中央にあり、直径は50km足らずの帆立貝を伏せたような火山島である。島の中央部には溶岩が冷えて荒々しく積み重なった、大小のカルデラのような地形が続く。余談ながら、カルデラ(caldera)とはカルデラの研究を最初に行った、カナリア諸島の現地の言葉から生まれたという。この島は亜熱帯でありながら、沿岸部の平均最高気温は22℃だというから真夏でもさほど暑くなく、冬も暖かい。常春の島といわれるこれ等の諸島には、ヨーロッパ各国のセレブ達が別荘を作り、年間を通して観光客も多い。かつては日本のマグロ船の基地があった。
カナリア諸島のチーズは山羊乳製が主体だが羊乳もあり、山羊と羊の混乳もある。 車でグラン・カナリア島の北部の海岸線から曲がりくねった坂道に取り付く。チーズ工房は島の中央部の高地にあるらしい。岩だらけの曲がりくねった道を登っていくと、やがて谷を隔てて、この島のランドマークでもある奇岩、ロケ・ヌブロが見え隠れする。あたりは植林されたらしいまばらな林はあるが、下草は実に貧弱だ。こんな環境で羊を飼いチーズを作っているとは信じられない。有り余る緑の島から来た者にとっては何とも不思議な気がする。やがて本道をはずれ、小さな沢筋の道に入ると「チーズ売ります=VENTA de QUESOS」と書かれた看板があり、間もなく訪問先の小さな建物が見えた。そのわきには傾斜地の岩盤をくりぬいた半地下の作業場がある。羊たちはどうやら別の所にいるらしい。中に入って驚いた。6畳ほどの作業場と小さな部屋が二個。それだけである。
作業場に入って、更に驚いたのは、それらしい道具が何もないのである。ミルクを温める釜もない。凝乳をカットするカードナイフも、プレス器らしきものも見当たらない。これまで見てきたどんな小さなチーズ工房でも、これらの道具はそろっていた。 ここでもチーズを作るのはヨーロッパの伝統通り女性達で、母親と若い姉妹が担当するようだ。わきの小さな部屋には、搾ったミルクを入れて輸送するための、輸送缶があって、彼女たちは、やおら腕をまくり上げ缶の中をかき混ぜ始めた。近寄って見れば、缶の中のミルクはすでに凝固していて、それを手でカットしている。なんと搾りたての暖かいミルクが入った輸送缶に直接凝乳酵素を投入して乳を固めているのだ。何というシンプルさ。
時間がたつとカード(凝乳)は凝縮しホエーを排出していく。頃合いを見計らってカードを布で包んで、水切り台の上のプラスティックのワッパに押し込み、反転しながらこねるようにして水分を切っていく。この後は普通ならプレス器を使うのだが、ここからがまた衝撃的な作業が待っていた。なんと写真のように両手と両膝を使い体重をかけプレスしているのだ。人間プレス器である。手間はかかるが、これなら道具はいらないわけだ。
最後にチーズを試食させてもらいながら、いろいろな事を考えさせられた。何百年も続いてきたこのシンプルなチーズ作り。娘たちも普段着のままで、日本の現場なら目をむくようなやり方で、作業をこなしている。衛生管理はどうなっているのか、と我々はすぐ考えるが、標高が高く乾燥しているここでは、細菌の汚染が少ないのだろうか。それにしても、このチーズは名もない田舎の物産ではない。EUが認定するD.O.P.(原産地名称保護)の認定のQueso de Guíaというチーズなのである。
チーズ工房見学の後は、近くのワイナリーを訪ねた。カナリア諸島にもワインはあるが、亜熱帯だから、葡萄はこの島では1000m以上の高地で栽培しているらしい。そしてそのワインの銘柄はそれぞれ、収穫された葡萄畑の標高で著され、例えばこのワイナリーの主力の赤は「1318」であった。深い谷を隔てて、この島の観光スポットの一つであるヌブロ岩が見える絶景の試飲室で、グラン・カナリア島の軽やかなワインを堪能したのだった。