リンゴ酒で味わうバスクのチーズ
スペイン北部のビスケー湾沿には四つの州があるが、バスク州は「バスク国」とも呼ぶようである。このバスク国で古くから作られているというチーズを訪ねるため早朝、港町サン・セバスチャンを出発。西に20kmほど走ってから高速道路を降りて細い山道を南下する。過去に何度かスペインを旅したが、この辺りの風景はこれまで見たスペインとは違って緑が多く、時々信州の山の中を走っているような錯覚にとらわれる。この海岸線をコスタ・ヴェルデ(Costa verde=緑の海岸)と呼ぶそうだが、車窓にはゆるやかな丘陵と谷間を取り巻く樹林帯に囲まれた牧草地が次々と現れ、そこには放牧された家畜の姿が見え隠れする。多くの資料に登場する、この地方特有の凶暴な岩峰群はこの辺りからはまだ見えない。
曲がりくねった山道をゆくと、まもなく丘陵地には農家が点在していて、斜面には羊の群れが放たれている。こんな風景に見とれていると突然訪問先に到着した。まずは牧場主と挨拶を交わしてから羊の群れが詰め込まれた畜舎に案内されたが、それは体育館ほどの大きさの建物で、数百頭の羊が群れごとに囲われている。おそらく搾乳を終えて放牧される直前だったようで、羊達には落ち着きがない。まもなく一つの群れが畜舎から出され放牧地に向かう。急いで外に出ると、狭い村の道は羊でいっぱいになっていて、牧羊犬に守られながら、群れは牧草地へと降りて行った。初夏のバスク国の平和な光景である。
畜舎に戻ると、併設されたチーズ製造室ではすでにチーズ造りが始まっていた。ここで造られるチーズは羊乳製でD.O.P.認証のイディアサバル(Idiazábal)である。チーズ造りは女性の仕事という伝統がヨーロッパにはあるが、ここでも二人の女性がチーズ製造に従事している。製造室に入ると設備はかなり近代的で清潔。ホエーのすえた匂いの中に羊乳特有の香りが漂っている。長年ヨーロッパのチーズ造りの現場を見てきたが、乳を凝固させ、水分(ホエー)を抜き取って成型するという基本は同じだが、そのやり方や道具などが、国や地方そしてチーズの種類によって微妙に異なり、それぞれが独創的で実に面白い。
見学が終わると、お楽しみの試食会となる。普通のチーズ工房は数種類のチーズを造っているので、試食には工房自慢の複数のチーズが登場することが多いが、この工房で造るのはイディアサバルだけらしく、試食に登場したのは一種類だった。しかしこの時初めて知ったのだが、この地方ではチーズの試食のときの飲み物はワインではなく、特産の泡立つリンゴ酒のシードラ(Sidra)なのである。以後この旅ではレストランではもとより、チーズの試食の時はどこでもこのシードラが出た。微発泡の軽やかこの酒は、グラスに注ぐときの作法がある。瓶の口に特殊な栓を装着し高い位置からグラスに向けて細い糸のように酒を注ぐ。チーズ工房の案内のおじさんが、これをぎこちなく実演してくれた。シードラの事は後に詳しく書くとして、軽やかな酸味のシードラがこのバスクの古いチーズの濃厚な味わいに、新鮮な刺激を加えてくれたのである。