ピレネー山中に羊乳チーズを訪ねる旅
フランスでは羊乳で作るチーズは思ったより少ない。A.O.P.認定チーズは2種類、ロックフォールとオッソー・イラティのみだが、イタリアではペコリーノと呼ぶ一連のチーズの他、混乳のものを含めると17種ある(『チーズの教本2018』より)。
フランス第2位の生産量を誇るロックフォールは別格として、オッソー・イラティはピレネー山脈の北西側で、白い羊や頭の黒い羊の乳からひっそりと作られている。筆者はこのチーズが非常に好きである。
「ピレネー山脈の向こうはアフリカだ!」といったのはナポレオンだというが、この東西に連なる城壁のような山脈は人的、文化的な交流を妨げ、南側のイベリア半島では、特異な風土の中で北西ヨーロッパとは異なる文化が育っていく。例えばチーズでいえば、山脈の南側は羊乳チーズが主体だが、北側のフランスでは牛や山羊乳のチーズが多い。そしてピレネー山脈の西部には、学術的にもいまだにその出自が定かではない人々が昔から住んでいた。
その民族をバスク人といい、その言葉は印欧語とは全く違い、むしろ日本語に似ているというから面白い。しかしバスク人など知る日本人は少ないが、日本にキリスト教を広めたフランシスコ・ザビエルはスペイン・バスクの生まれである。それに、むかし、日本人の絵描きや漫画家などが愛用したベレー帽はバスクのファッションなのである。
ある年の初夏に、南フランスのアンリ4世が生まれたポーの町からかつてのローマ街道をたどりピレネー山脈の尾根筋にある夏のチーズ小屋を目指した。1時間ほど走った山中に、古い城壁に囲まれたサン・ジャン・ピエ・ド・ポルの町があった。ここは2016年に「フランスで最も美しい村」の仲間入りしたところだが、すでに作家の司馬遼太郎氏が「街道をゆく」シリーズの取材でザビエルの足跡を追って訪ね、その紀行文の中でバスクについて詳しく触れている。我々はこの町で昼食をとり、小さなチーズ屋さんをのぞいてから、さらにピレネー山中を目指し、夕暮れ前に谷川の畔の小さなホテルに着いた。急な斜面には牛や羊が放牧されており、道端では仔山羊達が遊んでいた。
翌朝、山全体が濃い霧に包まれていた。そんな中、曲がりくねった山道をたどるのは肝が冷える。時々白い毛のバスコ・ベアルネ種や頭の黒いテット・ド・ノワールというオッソー・イラティの原料を提供する羊の群れが行く手をふさぐ。そうこうしているうちに、尾根筋に出ると「チーズ直売」の小さな看板が霧の中から現れた。ここが、今回目的の夏季のチーズ小屋だ。夫婦と5歳くらいの男の子がいて、狭い作業部屋で一日4個のオッソー・イラティをつくっている。道具といえば銅張の小さな鍋とカードナイフ、それに原始的なプレス器だけ。空調のない製造室の壁には5日分ほどの若いチーズが並んでいる。熟成は麓の熟成庫で行うという。棚の下段にはハイカーなどに売るらしい熟成したチーズが並んでいたので、その中の1コを買い求めたが目が飛び出るほど安かった!
小屋から出て濃霧に閉ざされ尾根筋を少し歩くと斜面には小さな仮設の小屋があり、数頭の豚が霧を避け寝ていた。チーズ作りと豚、これはローマ時代からのセットで「農業論」を書いた大カトーは、その中で100頭の羊に対し豚10頭を飼いホエーを処理させるべしと書いているという。2000年以上前の約束事がこんな山の中で生きているという事は驚きであった。