「シャーロック・ホームズ家の料理読本」という面白い本がある。詳しくは書かないが、仕立てはホームズ家の家政婦サラ・ハドスンの料理メモをもとに書かれたことになっている。その中に「チェシャー・チーズの瓶詰」というのが出てくるが、作り方は簡単。チェシャー・チーズを砕いてバターで練り、最後にカナリア・ワインをよく混ぜて瓶に詰めるとあった。私はこれによって19世紀のイギリスでは、すでにカナリア諸島のワインが家庭で飲まれていたことを知ったのである。12世紀以来ボルドー地方を領有し、大量のボルドーワイン飲んでいたイギリスは、フランスとの百年戦争の結果1453年にボルドーが陥落。以来フランスワインが全く入らなくなる。そこでイギリスのワイン商は、ポルトガルに手を伸ばしポートワインを発明。スペインではシェリーを作りだし、そして、遠くカナリア諸島まで足を伸ばし本国にワインを供給していたのだ。その執念恐るべしである。
カナリア諸島といえばアフリカ大陸の西方100kmほどの所にあるので、我々は当然亜熱帯性の気候だろうと考える。緯度は沖縄諸島と同じ位置だし、こんなところで葡萄はできるのだろうかと思ってしまう。だが、カナリア諸島は常に吹き付ける強い風のため、さほど暑くはならないらしい。ちなみに自治州の州都があるテネリフェ島は、8月でも平均気温は25℃、冬は17℃で常春といわれる気候なのである。先に紹介した隣のフェルトベントゥーラ島は高い山がないため、年間降水量が140㍉で島全体は半砂漠状態だった。その点このテネリフェ島には富士山クラスの山があるから雲が湧きやすく、少しは雨が降る。従って、貧弱ながら緑も多く、バナナなどの栽培が盛んだが、ワイン用の葡萄はやはり標高の高い斜面で栽培されていた。テネリフェ島の北東にある最も若い火山島、ランサローテでは、強い風から葡萄の木を守るために、溶岩を掘り岩石で囲ったタコツボのような穴に葡萄の木を一本一本植えてワインを作っている。その苦労はいかばかりかと想像するが、ヨーロッパ人のワインやチーズに対する執念には頭下がる。
テネリフェ島に滞在している間は天候に恵まれず、島の中央あたりは常に霧がかかっていて、時折小雨が降りかかる。そのため北部の山羊の放牧地も見ることができなかった。そして残念ながら、スペイン最高峰のTeide山(3718m)は常に雲に覆われていて、その雄姿も拝むことができなかった。そんな訳で霧と小雨の中、どこをどう走ったか分からないうちに訪問先のワイナリーに着いた。規模は小さいけど、そこは溶岩でできた傾斜地を掘りさげ、岩石を積み上げて作られたおしゃれな建物で、門の所には葡萄の老木が青い実をつけていた。斜面に埋まるように作られたワイナリーの地下室には、熟成庫とテースティング・ルームがあり、壁にはワインの種類と価格が書かれた表が掛かっている。それによると13種のワインがあり、価格は1本5ユーロから17ユーロだから高くても二千円足らずだ。同行の人達は真剣にテースティングして好みのワインを買い求めていた。ワインについて白状すると、私はテースティングという分析的な飲み方が苦手で、ともかくガブリとやるのが好きなのである。その流儀でラベルも見ず、あれこれ無差別に飲んでみたが、カナリアのワインはまさに、こんな飲み方に適しているようだ。どれも親しみやすく飲みやすい。高いワインが飛びぬけて旨いとは思えなかった。その差はもう好みの範疇ではなかろうか。
テネリフェ島では残念ながらチーズ工房の見学はならなかったが、街のマーケットに出かけて行ってたくさんのチーズを見た。テネリフェ島はヨーロッパから最も多くの観光客やリゾート客を受け入れている島だから、チーズ売り場もそれを反映して、ヨーロッパ各国のチーズが大量に並んでいるのである。その中から島でつくられる名も知らない山羊乳のチーズを幾つか買い求め、ホテルの部屋で先のワイナリーで求めたワインと一緒にゆっくりと味わった。