フランスの庭園といわれるロワール河の中流域、ブロワの町から50kmほど南下した所にヴァランセという小さな村がある。チーズを学んだ人なら、あの、ピラミッド型というより、踏み台のようにずんぐりした形の黒い、山羊乳チーズが思い浮かぶかも知れないが、この村には、村の面積より広大な敷地を持つヴァランセという城がある。しかし、この城を知る人は意外に少ない。ロワールの旅といえばお城めぐりと決っているが、この城は、南に大きく外れているので普通の観光コースには入らない。
この城が歴史の表舞台に現れるのはナポレオンの時代である。18世紀後半のアンシャン・レジューム(旧体制)の時代から、革命政権、ナポレオン、そしてルイ18世の王政復古まで、ギロチンにもかからず生き抜き、老獪かつ狡猾な手腕で政治の表や裏舞台で活躍してきたタレイランという政治家がいた。伯爵家の出ながら足が悪かったため家系は継がず司教となるも、教区にはいかずにパリに邸宅を構え美食三昧の日々を送る。そして彼は、当時パリに集まってくるヨーロッパの王侯貴族達を邸宅に招き、パリで最も洗練されたと噂される料理でもてなす。この料理を担当したのが、捨て子の身から偉大な料理長にのし上がった、若き日のアントナン・カレームである。こうしてタレイランはヨーロッパの有力な王侯貴族達との関係を深め、後の外交と蓄財に生かすのである。
コルシカ島の出ながら、フランス革命の混乱に乗じて頭角を現し、皇帝まで上り詰めたナポレオンは、この老獪な政治家タレイランを外務大臣に起用する。だが、タレイランは大貴族の出身で、根っからの快楽主義者だったから、そそくさとメシを食い、戦争ばかりしているナポレオンを軽蔑していた節がある。ナポレオンは苛立ち、しばしば彼を罵倒したが、タレイランの人脈と卓越した外交手段を頼みにしていたから首にはできなかった。そして、後にナポレオンはヨーロッパの王侯貴族をもてなす場として、タレイランに命じて、先のヴァランセ城を購入させる。そして、この城でタレイランお得意の美食外交が繰り広げられるのである。城の地下室には広い立派な厨房があり、そこを取り仕切っていたのが、当時はすでに「王の料理人か料理人の王か」といわれ、各国の王宮から引く手あまただった偉大な料理長カレームだった。その厨房にはカレームの肖像画が飾られている。
ヴァランセ・チーズに話を戻そう。当時この村のチーズは今の姿ではなく背の高い綺麗なピラミッド形をしていたそうである。話はここから始まる。
1980年代に、今は博物館になっているヴァランセ城を訪れた私達は、そこの館長にこんな話を聞いた。ある日ナポレオンの食卓に、ヴァランセ村からピラミッド型のチーズが届いた。その姿を見たナポレオンは、無残な敗北を期したエジプト遠征を思い出したか、突然激昂して、そのチーズの上を切れと命じたという。哀れナポレオンの癇癪のおかげで、スマートな形だったヴァランセ・チーズは今の様な、ずんぐりむっくりの姿になったという話である。これが本当なら多分、皮肉屋のタレイランが仕組んだナポレオンへの強烈なしっぺ返しかも知れない。彼ならやりそうである。
話をヴァランセ城に戻すと、深い森に囲まれた美しい城で芝生には子鹿の群れが放たれていた。城壁もなく堀もない瀟洒な城館といった風情である。しかし、皇帝ナポレオンは、1807年スペインを征服し、スペイン王だったフェルナンド7世を退位させこの城に幽閉する。幽閉といっても、城内であれば自由にしていることが許されたから、優雅なる幽閉といわれた。広大な森、ロワール河畔の湿原などに囲まれているこの城から脱走しようにも、相当に強力な手引きでもなければ、とても脱走などは不可能であろう。
ヴァランセ城見学後の昼食は、隣接する静かな村のレストランで、ロワールのシャリュキュトリーを楽しみ、Valançyという銘柄のワインでシェーブルを堪能したのだった。