ポルトガルのチーズは、日本ではほとんど知られていないが、ポート・ワインの名は昔から皆知っていた。真っ赤な太陽が大きく描かれた瓶から注がれる、夢見るような甘いワイン。これが日本人のワインの原点だった。ポート・ワインはポルトガルのごく限られた地域で作られるアルコールを強化した特殊なワインだが、当時日本で飲まれていたのは、製法はさだかではなかったが国産100%。経済活動がグローバル化すると、このように原産地を詐称することが許されなくなり、今はスイート・ワインに名を変えて売られている。私が輸入ワインの仕事に関わるようになった1970年代の前半、普通のワインを試飲させると「ワインって甘くないんだ」という人が沢山いた。ポート・ワインのイメージが強く残っていたのである。
その後、私はワインの生産地を見るべく、ひと月かけてヨーロッパ各国を回ったことがあったが、その折に、スペインの南端のシェリーの町を訪ねたが、スケジュールの関係でポート・ワインの町ポルトへ行くのを断念。本物のポートを飲む機会を逸してしまった。
あれから40年、ポルトガルのチーズを探る旅で、やっとポートの町ポルトを訪れる機会がやってきた。
ポルト市はドウロ川の河口近くにあるポルトガル第2の都市で、とりわけポートの積み出し港として知られる。ドウロ川左岸にはビラ・ノバ・デ・ガイヤというポートを専門に熟成させる地域があって、ここで熟成されたポートは船に積まれ、かつては主にイギリスに運ばれていった。今もこの港から船積みされないとポートの名は名乗れない。
ポートの原料になる葡萄の生産地はドウロ川が刻んだ深い谷を60kmも遡らなくてはならない。そこは最大斜度60度にもなる段々畑に葡萄が植えられている。アルト・ドウロと呼ばれるこの地区は、夏は40℃になる過酷な土地で、葡萄の糖度は非常に高くなる。そのためにポート独特の作り方が考案された。収穫された葡萄はすぐに石の槽に入れられ、これを素足の男がリズムを取りながら踏みつぶす。一組6人の男たちが4時間交代で10数時間この作業を続けると、葡萄はどろどろのジャム状になり発酵が始まる。頃合いを見てこのどろどろの果汁を漉し、ブランディーの入った樽に入れ発酵を止める。そして、その樽をバルコ・ラベーロという舟底の浅い舟にのせて、熟成を行うため下流のビラ・ノバ・デ・ガイヤ地区に運んだ。現在は道路も整備されトラックで運んでいる。
葡萄の産地アルト・ドウロ地区を訪ねたのは春先で、葡萄はまだ芽吹いていなかったが、美しく整備された畑は、耕して天に到るという表現がそのままの風景である。近くにポルトガルで一番美しいといわれるピニャオンという小さな駅がある。その駅の外壁にはアズレージョと呼ぶポルトガル独特の碧いタイル絵が20数枚掛かっていた。画題は谷の斜面を埋める葡萄畑で働く人々や、樽を舟に積んで川を下る情景などである。
ポートを好んだのは主にイギリス人で、ポートの取引でも市場を牛耳っていた。そして、イギリス人は、数百年かけポートを飲む文化を育てた。自国の青かびチーズのスチルトンとポートの組み合わせは、英国紳士の食後の定番になるのである。
ここでポルトガルチーズの話を少し。葡萄の産地アルト・ドウロ地区には山羊が飼われカブラ・トランスモンターノというD.O.P.チーズが作られている。この谷でチーズの熟成もしているという醸造所を訪ねると、ポルト酒とチーズのコラボレーションを企画してくれた。そして、ドウロ川を下ったビラ・ノバ・デ・ガイヤにある、日本でもおなじみのメーカーでの試飲会でも、数種類のポートの合いの手にポルトガルチーズの原点といわれるセーラ・ダ・エストレラが出された。
甘い酒が苦手な筆者がこれほどポートを飲むのは初めてで、そして終わりかもしれない。