乳科学 マルド博士のミルク語り

海に棲む哺乳類のミルク

2016年7月20日掲載

昔、分析を専門に行っているグループに用事があり実験室に行きました。そしたら、実験台の上に「オット1」、「オット2」と書いてある遠沈管(遠心分離機で用いるガラスあるいはプラスティック製の容器。試料を入れて沈殿と上清を分離する目的で使われます。)を見つけました。何だ?オットとは?近くの方に聞いたらオホーツク海で採取されたオットセイのミルクで、これから一般成分を分析する、とのこと。滅多にお目にかかれないミルクなので詳しく調べるべきだと考えた私は有志を募って一般成分の他にもいろいろ調べることにしました。が、一般成分分析で残ったミルクの量は少量で、分析項目や分析手法も制約を受けながらの分析でした。

その結果、牛乳などと大きく異なっていたのは、①脂肪含量が高く、約45%もありました。②乳糖がありませんでした。③α-ラクトアルブミンも検出できませんでした。④カゼインミセルの平均直径は300nm程度で、牛乳の倍近い大きさでした。⑤脂肪酸組成は魚に多く含まれる多価不飽和脂肪酸が多いという特徴でした。その後、クジラのミルクも分析する機会がありましたが、オットセイと似たミルクの組成でした(表参照)。

何故、オットセイのミルクを分析しなければならなかったかというと、ある水族館からオットセイの赤ちゃん用ミルクを作ってほしいとの依頼があったためです。その理由は、第一に、水族館で飼育されたオットセイは出産しても仔にミルクを与えないことがある、つまり育児を知らないのです。第二に、北極海の氷原にて出産したオットセイの母仔が、氷が割れると離れ離れとなり、流氷に仔が取り残され、北海道のオホーツク沿岸に辿り着きます。それを見つけた方が死にそうなオットセイの赤ちゃんを水族館などに運び込みます。すぐにミルクを与えなければなりません。しかし、当時日本にはそのようなミルクはありませんでした。というわけで、分析結果に基づいて水生動物用のミルクを開発したのです。

オットセイのミルクを分析していくつか疑問が残りました。第一は、体表には乳房らしきものが見えないのにどうやって赤ちゃんはミルクを飲むのだろうか、第二には、乳糖がなくて脂肪が高いということは脂肪をエネルギー源として使っていると考えられます。それはいいとして、脳のエネルギーはどうなっているのだろうか?脳には脳関門と呼ばれる関所があり、糖質は関所を通過し脳のエネルギー源となりますが、脂肪酸は関所を通れないと考えられていたためです。第三は、乳糖は腸内細菌を乳酸菌リッチにして赤ちゃんを感染から守るという働きもあるのですが(2016年4月20日)、乳糖を取り込まない水生動物の腸内菌叢はどーなっているのだろうか。

第一の疑問については何年かしてから解決しました。ある時NHKのTVを何気なく観ていたら世界で初めて撮影することに成功したクジラの哺乳を放映していました。クジラの赤ちゃんが母親の乳房(と思われる)付近をツンツンと突っつくとミルクが分泌されたのです。第二の疑問は、脂肪酸は脳関門を通れなくても、脂肪酸が変化したものは通過できることが分かってきました。恐らく、これが脳のエネルギーになっているのではと推測しています。第三の疑問は未だに謎のままです。水生動物の腸内菌叢についてご存知の方がいたら教えてください。

水生動物用ミルクを全国の水族館や動物園からのリクエストに応じて提供し始めましたが、当時飼育員の方々は赤ちゃんにどうやって溶かしたミルクを飲ませるかで大変苦労されたと聞いています。大きな哺乳瓶で強制的に飲ませるようにしたそうです。そんな最中、ムツゴロウ先生で有名な「動物王国」(当時は北海道にありました)から、製氷ケースに溶かしたミルクを入れ、キューブ状に凍らせたミルクを赤ちゃんの口に入れたらよく食べてくれたというお手紙をいただきました。なーるほど。とてもすばらしいアイディアです。当時は製氷ケースに水をいれ、仕切り板を入れて四角な氷を作っていたのです。春になると、オホーツク沿岸にオットセイやアザラシの赤ちゃんが流れ着きます。そんな映像を観ると、メッチャかわいいのですが、一刻も早く水生動物ミルクをあげなくては・・・と気が気ではありません。