もう40年以上も昔のことです。私は乳業メーカーの研究所でホエイたんぱく質の一つである“ラクトフェリン(LF)”というたんぱく質について研究していました。LFは蝶のような形(図)をしており両方の羽に鉄をそれぞれ1分子結合する領域があります。
LFは牛乳中に0.02~0.35mg/mLしか含まれていませんが、母乳には沢山含まれています。牛乳でも初乳には大量に含まれています。このことから新生児の生命維持や成長に欠くべからざる重要なたんぱく質であることが推測できます。
等電点はpH8付近で、牛乳中ではプラスに帯電しています。このため、マイナスに帯電しているカゼインと結合しやすい性質があります。しかし、pHが酸性になるとカゼインからは離れるのですが、チーズの種類によってはLFの一部はカードにも含まれています。LFは乳中に含まれるだけでなく、血液にも含まれています。血液中にはトランスフェリン(TF)と呼ばれるたんぱく質もあり、体内に鉄を供給する役割を担っています。LFはTFとは親戚関係にあり、卵にも含まれているLFをオボトランスフェリン(オボは卵のこと)と呼び、乳中のLFをヨーロッパの一部ではラクトトランスフェリン(ラクトは乳のこと)と呼ぶこともあります。
LFには抗菌作用、免疫調節機能、ビフィズス菌増殖作用、内臓脂肪低減作用など様々な健康機能が知られています。一般的に酵素やホルモンなど生体に含まれるたんぱく質は特定の機能(例、分解、合成、調整など)を発揮していますが、LFのように多機能な働きをするたんぱく質は極めて珍しいのです。このため、現在でもLFの機能について多くの研究が行われており、医薬品としての利用も研究されています。
しかし、LFを利用した食品は少なく、タブレットやカプセル化したサプリメントの他は乳児用の調整粉乳やヨーグルト(森永乳業)などが上市されているだけです。何故、食品への利用が少ないかといえば、①LFの価格が高いこと。微量なため高価格となることは仕方ないのですが、数万円/kgもするため有効量を添加すると高価格商品となってしまいます。②食品とするには加熱殺菌しなければなりませんが、熱に不安定で沈殿し機能性を失ってしまいます。
しかし、Davidson & LönnerdalがLFを酸性で加熱するとLFが半分になり、熱に安定となることが報告されました(Am.J.Physiol.Gastrointest.Liver Physiol. 257:G930-G934, 1989)。半分になるとは前述の図にあるNローブとCローブに分かれるのです。続いて、森永乳業も同様の報告をし(J.Dairy Sci. 74:65-71, 1991)、この成果を活用しLF入りヨーグルトを発売することに成功しました。さらに、私たちもpHと塩濃度の組み合わせを調整するとpHが中性でも加熱安定性が得られることを見出しました(Intern.Dairy J. 2:287-298, 1992)。
そこで、どのような商品にすべきかいろいろ思案しました。ある日、大学の先生から鉄が結合したLFを動物実験で使いたいので作ってくれないかとの依頼がありました。そこでLFに鉄を理論値以上(LF1分子当たり鉄2分子以上)加え、限外濾過装置でLFに結合しなかった過剰な鉄をろ液に回収しようと考えました。LF1分子に鉄が2分子結合するのですから結合しなかった鉄はろ液に排出され、濃縮液に鉄結合LFが残るハズと考えたのです。しかし、ろ液には鉄が全く排出されませんでした。すなわち、LFは2分子以上の鉄を結合したのです。遊離の鉄がないのであればあの鉄特有の不快な味はしないのかと思って舐めてみましたが、残念ながら鉄味がひどくてとても飲めたものではありませんでした。
味がよくなれば、LFの様々な機能や貧血改善などを訴求する商品を開発できる可能性があるので、味を改善することに取り組みました。酸味があるので、pHを中性付近にしてみようと考え、LF+鉄の溶液に重曹を少しずつ加えていきました。しかし、おかしなことにpHが安定しないのです。そのため、時間をかけてpHを測定していきました。けど、私一人でpH計を使い続けるわけにはいきません。他の方からまだかよーと催促されました。仕方ないので、休日出勤しpH計を独占することにしました。朝から少しずつ重曹を加え、夕方になってようやくpHが6.8になりました。一口舐めてみました。なんと、鉄味は全くしません。次に加熱してみました。LFは加熱すると変性し沈殿してしまいますが、このpHを6.8に調整したLF+鉄は加熱しても沈殿はせず安定でした。味の改善と加熱安定性という難題が一気に解決できたのです。
しかしながらこのままでは商品化できません。私がやった方法では時間がかかり過ぎて実用的ではなかったのです。実用的な方法を開発しなければなりません。この課題に取り組み始めた矢先、研究所から本社に異動となってしまいました。そこで、この課題解決に取り組んでみたいという研究者を募り、ミニプロジェクトチームを作り、後を頼みました。メンバーはLFの専門家1名の他はバックグランドが全く異なる方々でした。しかし、いわば素人の集団がLFの研究者では考えもしないとんでもない方法を考えつき、見事解決してくれました。さらに、商品化に向けた様々な課題は別のチームに託され、貧血予防の清涼飲料として上市に至りました。貧血に悩む方で、普通の貧血予防タブレットや飲料では鉄味がして飲みにくいという不満を抱く方々から好評でした。しかし、ある事情で原料の一部が入手困難となり、販売できなくなってしまいました。
このように優れた技術が開発され、商品化に成功しても様々な事情で終売となってしまうことはよくある話です。しかし、いつかこの技術をさらに改良して、社会に貢献できる商品として生まれ変わることを期待しています。
【注】 2021年10月20日の本コラムにて、ブラウンチーズを食べて乳糖不耐症のような症状を起こしたという話は聞いたことがないと書きました。しかし、先日ある読者からブラウンチーズを食べてひどい下痢になった方がいるとの情報提供をいただきました。これが乳糖不耐症なのかは分かりませんが、下痢になりやすい方はお気をつけください。
「乳科学 マルド博士のミルク語り」は毎月20日に更新しています。
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